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ほぼ毎日19時更新。「映画鑑賞感想」は配信やDVDなど自宅で見た映画、『映画「タイトル」感想』は映画館で観た映画の感想です。稀に旅日記をやっています。

映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を観てきた感想


 英国初の女性首相サッチャーの生涯・栄光と挫折を、政界から引退して老いたサッチャー自身の回想という形で描いています。
 サッチャー元首相は2008年、娘によって認知症が進んでいることが明らかにされたのですね。知りませんでした。そんなサッチャーを周囲は厄介者として扱い、サッチャー自身は死んだはずの夫と生活している、そして、政治家を志して首相を退任するまでを回想していきます。
 映画「英国王のスピーチ」にあったスピーチの訓練、映画「J・エドガー」のような回想による生涯の描き方は良い比較になりました。特に、エドガーの場合はエドガーが信用できる人間は結局一人だけであり疎まれた存在だったのに対し、サッチャーは政策の強行が疎まれつつも明らかな結果も残しています。称賛に値するサッチャー、称賛する対象ではないフーバー、といったところでしょうか。
 また、サッチャーの場合、エドガーとちがって周りの人間に恵まれていると思いました。やはり、人間というのは環境に左右される部分が強いのです。鉄の女が称賛されたのは、周囲の協力があってこそなのです。誰も信じずに一人でもがいていたエドガーとは違います。サッチャーが退任するときは大勢に裏切られたという形になっていますし、長く首相を続けられたのも利用されていたに過ぎないという見方もできます。しかし、利用するに値する強い人間だったという言い方もできるでしょう。マネをしたいサッチャーか、マネをしたくないエドガーか。
 鉄の女と呼ばれたサッチャーは、作中ではそのとおりの鉄の女でした。自分の信じる政策を押し通していきます。同じ保守党内からの批判に屈せず、国民からの批判に屈せず、自分を信じていきます。そのために、失業者が倍増するというとんでもない状況になったりしています。忌むべきところではあります。
 J・エドガーのときはエドガーにまったく感情移入できないままでした。単なる嫌な奴でした。しかし、サッチャーは、退任の場面で泣いてしまいました。この映画のサッチャーは、私の中で響く部分があったのです。自分の信じる道を押し通したという部分ではエドガーもサッチャーもいっしょのはずなのですが。サッチャーのほうが琴線に触れたということです。
 さらに、老いたサッチャーですが。その傍には必ず死んだはずの夫:デニスがいます。デニスはサッチャーにしつこく話しかけます。生きていて、紅茶を飲むし、朝食を共にしています。もちろん、周囲からデニスが見えるわけではありません。
 作中ではデニスの遺品を整理できないまま時間が流れていきます。遺品を整理しようかどうか迷うサッチャーが回想を続けていくわけです。でも、最後にはサッチャーがデニスの死を認めて、遺品の整理をします。黒いごみ袋にデニスの遺品を押し込んでいく場面でも泣きました。自分のやってきた政策は間違っていたのか、いや、そんなことはなかった、自分は正しかったという点に気付いたかのようでもあり、強い自分を取り戻したかのようでした。
 サッチャーはデニスと結婚するときティーカップを洗うような女性にはならないと言っていました。しかし、老いたサッチャーが最後にティーカップを洗います。この場面も泣けました。激動の生涯を振り返り、ようやく安息の時間を得たようでした。
 政治家の一生を描いた作品ではなかったということです。認知症になってしまい、死んだデニスと過ごすサッチャーの近年の生活に重きが置かれています。認知症という事実はかなり暗いものではあります。仕事をがんばりすぎて、その仕事を失った故の認知症という可能性が高いからです。裏切られた故に首相辞任、そのために認知症となったかもしれません。しかし、作中ではサッチャーが称えられるべき功績に自ら気づいたからこそ傍にいる死んだはずのデニスを消すことができたのですから、この映画は明るい映画だと思います。人間というのは、ダメな部分ばかりを思い描いていくよりも良い部分を見ていかないとしんどいのですよ。
 政治の話なのかな、と敬遠する方もいるかもしれません。その必要はない映画です。
 政治家としてのサッチャーではなく、ひとりの女性を観る映画なのです。
 みなさん、良かったらご覧ください。