やくもとうずしおをがっつりと

ほぼ毎日19時更新。「映画鑑賞感想」は配信やDVDなど自宅で見た映画、『映画「タイトル」感想』は映画館で観た映画の感想です。稀に旅日記をやっています。

2014年東北旅日記 その3

 8月14日、旅3日目。
 泥のように眠ったようで、起きたら朝9時でした。めちゃくちゃ驚いて飛び起きて「おはようございます」とあいさつしました。
「かなり疲れてたんだね」と言われてしまいました。
 10時近くまで気仙沼地震前と後の違いを説明してもらって、先輩の案内で三陸南部女川〜気仙沼の見学に出ました。
 三陸復興の裏事情を聴かせてもらいつつ、石巻を通過して女川で再開した食堂へ。石巻市内では更地と以前のままの住宅地がくっきりわかれている場所がありました。
 食堂に着くと、名物は女川丼というものですが、これがうまいのなんのって。特にうにですな。新鮮なうにはとろっとしていないんですな。口に入れたらとけるけど、形がしっかりしていますな。
 三陸の魚はうまいですな。
 さて、その食堂から見える女川の風景はひどいものです。女川を通る国道は地震前に通りました。そのときは街だったはずなのにそれが何もなくなっています。津波を受けて基礎から折れて倒れた鉄筋コンクリートのビルがまだそのままです。
 食堂を出て、山の上の病院に行きました。山へ登る途中にあったガードレールがぐしゃぐしゃになったままでした。山から女川の街を眺めました。そしたら先輩が「こっち来て」と急かすのです。病院の入り口です。地面から1メートルくらいのところに津波の痕を表す矢印が貼られていました。こんなところまで津波が来たのですよ。信じられますか。
 病院の駐車場には基礎だけになった建物もありました。地震前に「ここなら間違いなく安全だろう」と思って建てられたはずの病院ですら津波を受けたのです。東日本大震災は数千年に1度のレベルだったということを思い知らされました。山の上の病院まで案内された意味がわかりました。
 女川を出てからは大川小学校と志津川の防災庁舎、志津川の復興商店街を見学しました。
 車の中ではしゃべるのですが、車を降りてそういうものを観るたびに無言になっていました。
 志津川の復興商店街はプレハブが並んでいます。それはよいとして、そこにはモアイがあるんですよ。これがなんと、南米の本物のモアイ職人が本物の石を使って作り、さらに本物の儀式をした上で志津川に贈られたものだそうです。しかも、震災後にチリの大統領が来ています。大統領ですよ、大統領。本物のモアイですよ。
 志津川のモアイはぜひご覧ください。被災地を見て回るよりはこのモアイを見たほうがよほど良いと思います。
 そのあとは気仙沼に戻りました。
 気仙沼には向洋高校という学校があります。水産や工業関連の高校です。津波で甚大な被害を受けたのですが、敷地内にいた生徒は1人も死んでいません。4階建で津波は4階直下まで迫りました。
 その向洋高校はおそらく被災した建物の中でほぼ唯一遺産として残されることになるようです。遺産として残すかどうか、防災庁舎や打ち揚げられた船などについて議論があり、それはすべて撤去されることが決まっています。
 私としては被災者ではない立場ですが、保存するかどうかについて思うところはあります。ただ、遺族が大勢いらっしゃいますし、そのあたりの思いを大切にするという意味では撤去が当たり前になるのでしょう。
 そんな中で向洋高校は犠牲者を出さなかったという良い意味があっての保存となります。そのときは広島原爆ドームなどのように公園として整備されるでしょう。もちろん原爆ドーム負の遺産なのでここで比べるのはおかしいですが。
 とにかく、何年後かはまたこの気仙沼に来ることになりそうです。
 ちなみに、多くの港町が更地になりました。その中で気仙沼はかなり復興しつつあります。海で栄えている街の中でも特に大きいですから復興が早いのも当然かもしれません。それに、気仙沼は沖にある大島のおかげでそのまま残った市街地が多いですし。
 更地は土を盛ってかさ上げしてその上に水産関連の工場が立ち並んでいました。盛土の高さはそれほどではありません。一応今回の津波の高さや過去の高さにはそれなりに対応しているようです。1階に居住空間を置かないなどの基準はあるようですね。

南三陸町復興商店街にある本物のモアイ像。ぜひ見学してきてください。
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 これより下は被災地の様子です。亡くなった方のご冥福をお祈り申し上げます。






↑大川小学校

↑女川町を見下ろす丘の上にある女川町立病院

南三陸町志津川の防災庁舎